#7 [STUDY] 石積み-自然のなかに自分をはめ込む / Dry Stone Walling, a Practice in Grounding One's Self in Nature.
日本各地の農村における生活の風景として今も残る、石積み。東京工業大学環境・社会理工学院教授の真田純子さんは、2013年に石積み学校を立ち上げ、風景の保存や技術の継承に取り組んでいる。そんな真田さんが石積みに見る、人と自然との関係性とは。
Dry stone walling still remains as a landscape of rural life in many parts of Japan. Junko Sanada, a professor at the Tokyo Institute of Technology's School of Environmental and Social Science, established a dry stone walling school in 2013 to preserve the landscape and pass on the technique. In the following piece, Dr. Sanada touches on the collaborative relationship between people and nature that develops in the practice of dry stone walling.
私は棚田や段畑の「空石積み」の保存と継承を行っている。棚田や段畑の段には土で出来たものと石やコンクリートで出来たものとがあり、そのうち、石で出来ているものが石積みである。伝統的な石積みは、石と石をくっつけるモルタルやコンクリートが使われておらず、石だけで積まれている。それが「空石積み(からいしづみ)」だ。
東京の大学で長い学生生活を送ったのち、2007年に徳島大学に着任した。当初、せっかくなので農村部でしかできないことを体験しようと、「ソバ播き体験」に参加した。会場に到着してみると、急斜面に石積みの段畑がつらなる場所で、その迫力に心を動かされた。後で知ったのだが、そこは徳島で有名な「高開の石積み」集落であった。
それから、ソバの花が咲くのを見に行き、収穫体験、そば打ち体験などにも通った。2009年に学生とともに石積みをする合宿を開催して以降は、毎年合宿を開催し、2013年には一般の人向けに石積みを教える「石積み学校」を立ち上げるまでになった。
偶然に石積みと出会ってから、私はすっかり石積みに魅了されてしまった。
農地の石積みは面白い。その面白さは、一言でいうと、「土地の一部になる感覚」である。
農作業のひとつとしての石積みは、実際、その場にあるものでいかに効率よくつくるかが重要である。使用する石は、遠くから運んでくるようなことはせず、近場の石でまかなう。田畑を開墾するときに出てくる石を使えば、「平地をつくる」と同時に、耕作には邪魔な「石を片づける」ことにもなる。その場に石がない場合も少し山に入って岩盤が露出しているところからとってくることが多いらしい(そういう石もない地域では、石積みはつくられない)。集落より高い場所であれば、木馬(きんま:木で出来たソリのようなもの)で比較的に楽に運ぶことができる。
そして、石はなるべく加工せず、大きさもバラバラのまま、どんな石でも積む。そうすれば、余る石がないので、運んでくる石の量を抑えられる。お城やお屋敷などの「高級な」石積みでは、石の隙間が無くなるよう緻密な加工がされたものがあるが、隙間があるからといって強度には影響しない。だから農地の石積みは、隙間があっても良い。
地域の石を使う、石はなるべく加工しない、となると、石の形は地域によって異なることになる。石は、その土地の地質に依存しており、割れ方のクセが地域によって異なるからだ。
地域によって形の異なる石を積むためには、それにふさわしい積み方の工夫が必要となる。基本的な力のかけ方や構造は、表に出る石(積み石という)を後ろに傾ける、2つ以上の石に力がかかるように置く、背後に排水層となる小石(グリ石という)の層をつくる、の3点。これはどの地域でも共通だ。それに加えて、石の形に合わせて、目地を水平に通すとか、面をどのように合わせるかとか、地域ごとに積み方が少しずつ違ってくるのだ。
さらには、石が十分にないところでは、排水層を必要最小限に抑えたり、通常だったらグリ石にするような石を積み石にしたり、現場の状況に合った方法をとる必要がある。
これは、人間がやりたい工法に合わせて、規格化した材料を用意するという現代の一般的な工事とは全く異なる。積み方の主導権を握るのは、そこにある石や現場である。自分の積みたいようには積めない。形を整えていない石は、その石が収まるようにしか収まらないのだ。それぞれの現場にこちらが合わせていくしかない。
これが、「土地の一部になる感覚」である。石積みをすると、その土地の大きな循環の中に自分が入り込んだような感覚になる。これが面白いのである。
石積みは、自然物だけを使うからCO2を排出しない。また、積み直せば同じ材料で新しい壁をつくることができ、廃棄物を出さない。隙間は生物の棲み処になる。こんな環境的な理由から、特にヨーロッパを中心として2000年頃から再評価が進み始めている。
日本でも空石積みが再興することを期待しているが、その際、単に自然の材料や隙間のある構造だけが評価されるのではもったいない。それぞれの土地が主導する構造物として、人と自然との関係性にも光が当てられると良いなと思っている。
偶然に石積みに魅了されて以来、石積みの研究と実践、普及活動を続ける真田さん。彼女の「石積みは、それぞれの土地が主導する構造物である」という言葉は印象深い。たしかに石を積むのは人間だが、石は人間の意思を超えたところで私たちを動かす。「その石が収まるようにしか収まらない」と認めるところから石と人間との体を張った対話が始まり、土地の大きな循環の中に入り込む感覚を得て、「土地の一部になる感覚」が芽生えるのだろう。
人間が動かし、積む石とは何かと考えると、それ自体がまさに土地の一部である。地殻変動といった大きな変化や日々の風雨に曝され、さまざまに形や状態を変えながら、その土地を作り上げるマテリアルだ。あらためて、石積みは動いている土地のその瞬間の状況に応じたマテリアルの集積であり、その土地で暮らすためのインフラを整えてきた人々の知恵の集積でもあることに気づかされた。
近年、ジュリア・ワトソンが著した “LoーTek: Design by Radical Indigenism” (2020) でも光を投げかけられたように、その土地に受け継がれてきたエコロジカルな叡智と技法への再評価が進んでいる。それぞれの土地に生きる人々によるサステイナブルな知と大切にしてきた慣習と哲学に耳を澄ますことで、私たちはより自然と共生するライフスタイルへの移行のヒントを得るとともに、多元的な世界観の尊重と実現に近づけるのではないだろうか。(高坂)
When people think of an architectural project, they tend to assume that the protagonist of the project, the main actor doing the actual building, is a human being or a group of human beings, making ostensibly “rational” decisions regarding what and how materials are used and how much. Junko Sanada, a professor in the School of Environment and Society at Tokyo Institute of Technology, paints a very different picture, one in which non-humans take center stage and humans play a more diminutive and supportive role.
The process of dry stone walling, according to Sanada, is dictated by the stones themselves and the surrounding geological structures that produce them. Since how stones break apart depends on the geological characteristics of each bioregion, stone shapes tend to vary from one bioregion to another. Different stone shapes quite naturally require different stacking methods, and furthermore, every individual piece of stone is of a unique size and consists of unique surfaces and angles. A person who engages in dry stone walling needs, therefore, to be highly aware of these mathematical intricacies, but without access to the exact measurements. In the words of Timothy Morton, he or she needs to be attuned to how the stones themselves want to be stacked. It is a feeling, an openness to ones surroundings and the non-humans that comprise it. This openness is perhaps what ontologically grounds the experience Sanada describes as “becoming part of the land” or “embedding one’s self into nature”. (Edward)
真田純子
東京工業大学 環境・社会理工学院 土木環境工学系 教授
東京工業大学大学院博士課程修了。東京工業大学教授。博士(工学)。ベネチア建築大学客員研究員(2015)。都市計画史研究で博士号を取得し史料に埋もれる研究者になるつもりが2007年徳島大学着任後に石積み修行を開始。2013年石積み学校設立。2020年一般社団法人化に伴い代表理事就任。専門は緑地計画史、景観工学、農村計画、土木史。
著書のご紹介
「風景をつくるごはん」農文協 2023年10月6日発売